旅のルール;第4条 「好き」と「コスト」の放物曲線
少しずつこのHPも構成をいじってたりして、 自分のプロフィールもまじめに書き直さなくちゃなー。 こういう場合、やっぱ出身地とか趣味とか書くんだよなあ。 出身地は、福岡の久留米です。 なのでラーメンは、塩でも醤油でも味噌でもなくて、とんこつ派です。 唯一の趣味は、旅です。 一泊二日あれば、日本全国津々浦々、 「どこでもちょっとそこまで」「行って来い」の距離感です。
自分の中で、北海道や青森や鹿児島は、
山手線の反対側、池袋エリアに比べ数倍は近い。
数えてみたら、北海道は20回以上行ってて
北海道全体の80%、東北は100%、四国は90%、九州は70%、
本州日本海沿岸は85%くらいの「海岸線」を走破済みです。
車だけじゃなくバスや電車も含みます。
(読んでる人の99.999%にとってどうでもいい情報だという確信はあるが、
今日のテーマにおいてイカレっぷりを書いたほうが、
納得感が増すかもしれないので、一応書く。
ていうか今日の記事自体、そもそもどうでもいい情報ではあります)
で、その時良かった旅先は、何度でも執拗に行く。 「青森駅で朝のコーヒーを飲みながら、そういえば先週も先々週もここで飲んでたな」とか、
「山口の湯田温泉が良かったので翌月また夜行バスで行く」とか、
「本州なら、もう一泊1日でよい。昼に出て、翌日昼に帰る」とか、
きっとこういう状態を、 いわゆる「病、膏肓(やまい、こーこー)に入る」というのだと思います。
で、本題ですが、 自分には旅することは、
むしろ旅が日常であって日常のほうが旅であるくらいに思っているので、
旅にかかるコストについては、かなり厳格な基準点があります。
で、好きなものについてぐるっと一周半したら、
どんな人でもどんな趣味でも、「コスト対効果」について相当に厳しくなる。はず。ゼッタイ。
この現象を、 自分では
<「好き」と「コスト」の放物曲線>
と名付けてます。
「好きな度合いと、かけるコストは放物曲線を描く」
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これが自分の「旅のルール」第4条。
たとえば、今、趣味になるものが見つかったとしましょう。
当初は、その趣味にのめり込めばのめり込むほど、お金をかけます。 ピアノやテニス、カメラや映画、料理や切手や音楽やゲームや習い事。
のめり込むほどにレッスンとか仲間の集まりとか道具とか、より頻繁になり、より密に、高度に、なっていく。
当然、機会にともなって出費が増える。
購入して揃えればそろえるほどコストはかさむ。
出費が、
かさんで、かさんで、かさんで、
ある日頂点に達した瞬間。
「コスパ」という概念が、突如、脳内に出現する。
今まで湯水のように使っていたのに、
周囲にとがめられるほど金に糸目はつけなかったはずなのに、
ある日突然、
「このサービスにこれだけの金額をかけるのは、前回のあの時と比べてなんだか割高じゃないか?」という、ほの暗く、しかし小骨が喉にささるような小さな疑念が湧き上がる。
かすかな、だがどうにも見過ごせない疑問をもつ闇が、あなたに訪れる。
それが「放物曲線の頂点に達した」瞬間なのです。
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この頂点に達した次の瞬間、
一転して、使うコストにシビアになりはじめる。
たとえばもしあなたがグルメで食べ歩きが趣味なら、「美味しかったけどこの内容でこの値段は割に合わない、以前いった〇〇や▶️▶️に比べたら」、と店を出た瞬間に、脳内で品評会スタートするでしょう。
たとえば料理好きな人なら、スーパーで特価の表示をみたとても、「いや、このゆずぽんの値段はまだ最安値じゃない。オレはだまされねえぞ」とつぶやいたことがあるはずです。BY筧先生
で、自分の場合にはその対象が温泉宿です。
自分の国内における宿探しの第一希望は、常に、
「源泉掛け流し100%」。
「できれば自家源泉で自然湧出で、
かつ湧出地からなるべく近いところに
宿というよりいっそ浴槽が設置されていて、
宿泊者の人数に対して無理に多すぎる風呂を設けず、
それはもちろん源泉が適温の湧出にこしたことはないが
自然の恵みなので高温の場合は致し方ないけど
可能なら加水せずにその熱を自然に下げる装置を設けていて、
加温しなければならないのなら
それは無論ふろの楽しさはリラックスであるので、
加温していただきたいが、それも可能ならば加温した湯と
ぬるい源泉とふたつ浴槽があって交互にはいれたら
この上もなく至福なのであって、
かつ毎日全ての湯を入れ替えて掃除してくれたらすごく嬉しい」
(無論、読まなくていいですよ)
(というか誰か読んでくれてるのかこれ)
なので、
源泉掛け流しの宿で、いいお湯なら、ほかは全無視。
トイレ共同でも文句言わない。
なぜなら世の中には、
そこそこ料理がおいしくて、古くても掃除が行き届いてて、
部屋にお風呂はなくても(そもそも源泉の大浴場があるんだからいちいち部屋に風呂は要らん)、
「安全上夜中は風呂に入れませんよ」というとかいう謎の縛りもなく、
「ああ、うちは掛け流しなんでお湯は出しっ放しにしてますんで、24時間お好きにどうぞ、清掃のためにチェックアウト後1時間くらいだけ閉めるけど、それ以外なら夜中でも好きなだけ入ったらええがな」
という宿を、
それが1万円台の支払いで、十分よい温泉の宿に泊まれることを、
すでに自分は知っている。
そう、自分は知ってしまった。
あまりにあちこち行きすぎて、ほんとは、
以前は、もっとゆるい基準で十分、温泉だー🎵と喜んでいたはずなのに、
うっかり、知恵の実のリンゴをかじってしまったのだ。
もう、知らなかった昔には、戻れないのだ。
なので温泉宿のコスパに関しては、鬼のようにうるさい。
これが自分の「好き」と「コスト」の放物曲線の終着点です。
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で、果たしてこれは幸福なのか、不幸なのか。
それはわからないけど、少なくとも「放物曲線」の最終地点にたどりついた人は、どんどん口うるさくなり重箱の隅をつつくようになり、せっかく好きになったものを享受し堪能し幸せになれる機会を自分でせばめてしまっているわけなので、それは不幸なのは間違いないのだが、
一方、「ああ、これはコスト対効果にあっている」「そして、素晴らしい」という獲物をみつけて奪取する瞬間は、まさに恍惚の瞬間である。
周囲99%の人には全く理解し難い幸せを享受して、ひとり堪能する。
それを「至福」、
と、ひとはいう。
ついでながら、人はこういう時「美しい」「素晴らしい」とつぶやきがちだ。
ツウの域に達した人の唇から、思わず問わず感嘆の声が漏れるとき、それは間違いなく、至福の瞬間なのだ。
それまでのマイナスをすべてくつがえすほど、その一瞬の恍惚がすべてをあがなうのだ。
趣味って、たぶんそういうものだ。
病は、膏肓に入るのだ。
では皆様今日もおつかれさまでした。
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多くの旅好きがそうであるように、自分にも旅する時自分に課すような、個人的なルールがいくつかあります。
そのうち書き足します。 要らん。その労力を以下略。
自分の場合の、
「旅のルール」 。
1旅する時は、無理をする。 2行きたい時が行きどき、見たい時が見どき。 3暑い時は暑いところへ、寒い時は寒い所へ。 4好きとコストの放物曲線 好きこそコストにくどくなる。 5景色がごちそう 旅の予算と優先順位。 6トラブルはトラベル 冷や汗は忘れない、てか忘れられない。 7旅は、水力発電。 日常との落差が大きいほど効果が高い 8ホテルは、円のど真ん中 資産と負債。 9一人旅の安全の極意、「擬態」。 あんたはどこに住んでんの? 10身一つで行く。 「軽い」は正義。 11旅が日常で、日常が旅。
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